(4・14公演リポート)井口奮戦、しかし・・・

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※以下、文字情報です。

①FutureStage山根ほのか

今回、別稿のコラムでプロゲキについて厳しい意見を書かせてもらったが、その中にあって未来を感じたのが山根ほのかによるFutureStageだった。

ゆったりとした、そして何だか不思議な抑揚をつけた語り口で物語を紡いでいく。しかもその内容はなんとも気味の悪いものである。一人暮らしの部屋に、近所に住む人(と思われる)が訪ねてきて、先日のお礼に来たという。そもそもこの人物が誰なのかも思い出せず、話を適当に合わせようとするが微妙に噛み合わない。

次第に話は奇妙な方向に転がり、謎の果物を渡される。丸くてマーブル模様をした見たこともないような果物だ。これを食べていいものか、そもそも切ってみるべきか。

まるで安部公房の短編を呼んでいるような不安定な気分にさせられる。そして、間違いなく彼女はこれを狙っていると確信できた。

FutureStageはステップアップの場として、照明や音響もほぼ無しで、開演前の観客が歩いて入ってくる中で演じられる。当然こうやってレビューとして取り上げたこともなかったが、俳優・山根ほのかに大いなる期待をこめて書かせていただいた。

※先日、プロゲキ公式から山根ほのかが10月公演に本編で登場すると発表された。                (継木承一郎)

②1st Stage「傘がない、あるいは」

井上陽水の「傘がない」。実は若かりし頃によく聞いていた。なんとなくアンニュイな、しらけたムードがあの時代にはあった。

と、いう話とは全く関係がなく、居酒屋で酒を飲んで帰ろうとしたら傘が盗まれていた。さて自分も他人の傘を持って帰るか、という無責任にアハハと笑えるストーリー。昨年前半に上演した歯医者でのあるあるネタや井口が自身の方向音痴っぷりを自虐的に描いたショートストーリーの系譜に連なる作品といえる。

自分も盗まれたのだから盗んでもいいと考える自分と、自分と同じように誰かを不快な思いにさせていいのかと糾弾する自分。まるで天使と悪魔が脳内で戦うように演じられるのだが、そこはプロゲキ。どちらの自分も口汚く「なにコラ、タコこら!」と「コラコラ問答」(知らない方は検索してください)を繰り広げる。あるのはただ「文句あるのかこの野郎」という相手に対するマウンティングだけだ。

真剣に言い合っているが冷静に考えればバカバカしい。そんな争いは私たちの周りにも多く見られる。この芝居のラストのように「それ、私の傘なんですけど」と冷水をかけてやりたい奴が頭に浮かぶ。       (継木承一郎)

Semi Final「おっさんの恋バナ」

誰にもひとつくらい「恋バナ」がある。

たとえば学生時代の甘酸っぱい初恋。たとえば無理して盛り上げた合コン。たとえば給料3ヶ月分した婚約指輪。たとえば誰にも言えない道ならぬ恋。

少しばかり話を盛るかもしれない。 記憶が美化されているかもしれない。自分を卑下したり、正当化したり。

恋バナには話している人間の人となりがにじみ出る。今回井口が演じた50男もまた、その人間性を露わにされていた。

普通に聞けば単なる不倫話なのだが、「ピュア」「青春」「真夏」といった言葉で美しく飾ろうとする。それは自分の過去に対してなのか、隣で聞いているマッチングアプリで知り合った若い女の子に対してなのか。おそらく両方なのだろう。男はどこまでいってもカッコをつけたい生き物であり、その故にひどく滑稽なのだが、それには気づかない。井口演じる男もいつしか酒に酔い自分に酔いつつ話したあげく、横にいる「ゆりちゃん」にフラれてしまう。

酔って、転んで、逃げられて。

それでも次の出会いを求めてスマホに向かう。ラストで流れる「六本木心中」に恋の業を感じた。  (継木承一郎)

④Main Event「もしはにゃ ~もしも井口時次郎が般若心経を読んだら~」

今回井口が般若心経を題材にすると知った時、私が想像したのは古舘伊知郎氏の舞台「トーキングブルース」だった。古館氏はお経のリズムであのプロレス実況のようなマシンガントークを展開していた(ちなみに一部はyoutubeなどで観ることができる)。そしてその方向性であれば、さすがに分が悪いのではと考えたのだった。

しかし、井口が選択したのは般若心経をどう読むかという、表現者としてのプロセスをそのまま見せてくるという、内幕ものに近い内容であった。しかしそこに、ニコニコ動画などのインターネットの要素が折り込まれ、音と意味、「わかる」ことと「できる」ことの違いといった哲学的な内容にまで踏み込んだかなり挑戦的な作品となっていた。

井口の作品の特徴のひとつは「井口時次郎として語ること」ではないだろうか。一人芝居の演者はさまざまなキャラクターを演じるのだが、井口はまず「こんにちは、井口時次郎です」から作品を始める。もちろん作中では井口本人ではない人物を演じているのだが、どこか井口自身がつながっているようにも思えるのだ。これはむしろ落語に通ずるのではないか。

「落語は人間の業の肯定だ」と言ったのは七代目立川談志だが、業の肯定から般若心経につなげたのだとしたら・・・いや、よそう。夢になるといけない。

(継木承一郎)

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